石川数正は徳川家康が人質として今川義元の元にいた事から仕えた重臣です。
石川数正は徳川家康が豊臣秀吉と対立した小牧・長久手の戦いの後
自らの意思で徳川家康の元を去り、豊臣秀吉へ仕えるようになります。
石川数正の出奔は歴史上の謎とされており、はっきりとした理由の断定はできません。
ここでは個人的な推測、考察を書いていきます。
結論
石川数正が徳川から豊臣に寝返った理由は以下と考えます。
- 徳川家康より豊臣秀吉の時代が来たと判断した。
- 岡崎衆(信康付)だった石川数正は浜松衆(家康付)との関係が悪化していた。
- 小牧・長久手の戦いで和平を唱えて、武断派と意見対立し、徳川が嫌になった。
歴史を知っているともったいない決断
徳川の重臣だった石川数正が裏切って豊臣秀吉に寝返ったのは驚きですね。
後に徳川家康が天下を取って250年続く江戸幕府を開く歴史は現代人なら誰でも知っている歴史です。
現代人からすると、どうしてその決断をしてしまったんだ!もったいな!と思ってしまいますね。
石川数正の子孫は250年間嘆いていたでしょうね。
石川数正がなぜ裏切りを決断したのかについて解説していきます。
石川数正の家系
河内源氏の八幡太郎義家の六男・陸奥六郎義時が河内国壷井の石川荘を相伝します。
源義時の三男の源義基が石川源氏・石川氏と称し、後に三河国に下ったのが由来と自称してます。
嫡流からはだいぶ離れてはいますが源頼朝、源義経、木曾義仲、足利尊氏、新田義貞などと同じ河内源氏なので事実であれば名門の家柄ですね。
石川数正の重要な業務役割は外交担当
大名との外交交渉
石川数正の重要任務は外交担当の交渉役、現代で言えば外務大臣や外交官です。
ただし、現代の外交官とは違い基本は軍人なので戦争にも参加していますよ。
桶狭間の戦いの後は今川氏真との交渉を担当します。
家康嫡男の信康(細田佳央)と正室の築山殿(どうする家康では有村架純さん演じる瀬名)を取り戻します。
織田信長との清州同盟を結ぶ際も交渉役を担当してます。
豊臣秀吉が山崎の戦いで明智光秀を倒し、賤ケ岳の戦いで柴田勝家と戦うあたりのところから秀吉との交渉を担当しました。
外交担当者には地位や格が必要
外交交渉は相手国の大名と直接会って家康の代行として話を纏める必要があります。
これには能力の優秀さはもちろん必要ですがそれだけではなく大名の代わりが務まる地位や格が必要となります。
何度も外交交渉の役目を果たしていたことから相手国からも相応の地位の人物だと認められていた事でしょう。
寝返り動機1 信康切腹への不満と浜松衆との溝
松平信康の後見人⇒岡崎城代
徳川家康の本拠地は当初は三河国の岡崎ですが隣国の遠江国を領土にすると浜松を本拠地に変更します。
当初の本拠地の岡崎には嫡男の松平信康が任され、石川数正が後見人になります。
しかし、その後松平信康は切腹となり、石川数正が岡崎城代となります。
もし、信康が切腹することなく健在であれば2代将軍は徳川秀忠ではなく、徳川信康になっていたでしょう。
そうなれば後見人の数正は最重要ポジションに着けていたはずでしたが残念ながらそうはなりませんでした。
岡崎衆と浜松衆の溝
岡崎と浜松ですが60km以上離れており、現代なら高速道路で1時間もあれば移動可能です。
しかし、戦国時代は現代ほど道は舗装されていませんし、徒歩か馬での移動となります。
電話はもちろんありませんし、リモート会議も開けません。
岡崎衆と浜松衆は普段会わないために家康を中心として行う経営方針会議に参加ができなくなり距離ができたのではないでしょうか。
そもそも後見人を勤めていた松平信康が処分されたことに内心不満を持っていた可能性は十分にあります。
寝返り動機2 徳川家康より豊臣秀吉の時代が来たと考えた
極めて単純明快な動機ですが実際のところは単純に秀吉に仕えた方が未来があると考えたのではないでしょうか。
主君への忠義が重んじられるのは朱子学が広まった江戸時代以降です。
戦国乱世では勝つ側につくのは正義であり、生き残るのが最重要な時代です。
豊臣秀吉は天下人となりますが死後には徳川家康が天下を取りましたので長期的に考えれば石川数正の判断は早計だったと言えます。
しかし、それは結果論であり豊臣秀吉が天下を取る寸前の状態では徳川家康はまだ一大名に過ぎません。
実際に豊臣秀吉は天下人になった訳ですし、当時の人間からしたら秀吉の時代が来たと判断する事もあるでしょう。
寝返り動機3 和平を唱えて、武断派と意見対立
小牧・長久手の戦いでの意見対立
小牧・長久手の戦いは戦場では家康が勝利しましたがそもそもの持っている軍事力に大きな差がありました。
その後も戦争を続けるか和平を結ぶのかで徳川主流の武断派家臣団と石川数正は意見が対立しました。
出身地は同じ三河出身者がほとんどですが徳川家の連中とは自分は馬が合わないと感じた可能性もあります。
結果としては総大将の織田信勝と和睦を結ぶという豊臣秀吉の政治的な外交手段によって家康とも講和となりました。
その後は豊臣秀吉が天下人となる時代の流れとなりました。
信長、秀吉、家康の外交比較
豊臣秀吉はその後も関東の北条に対しては征伐をしましたがさほど戦争のみでの解決を重視しない人物です。
秀吉は大軍勢を集めて、相手を威圧し交渉によって領土を削減して降伏を認める事で短期間で天下を統一してます。
織田信長なら秀吉ほどには降伏を認めずに攻め滅ぼして織田家臣に領土を与える流れになったでしょう。
徳川家康は後に豊臣秀吉の死後は各国大名との婚姻を結び外交を重視して、関ヶ原の戦いに勝利します。
しかし、本能寺の変までの家康は信長の従属大名的な要素が強かったため独自外交を展開する場面は少ない状態でした。
秀吉は戦闘より威圧外交重視
豊臣秀吉は単純な戦闘で相手を滅亡させるよりも外交重視大名だったと言えるでしょう。
石川数正からすると豊臣秀吉は何が大事か分かる優れた人物という評価になったのではないかと思います。
異説1 徳川家康の命令で豊臣秀吉に寝返った
外様家臣ではスパイとして機能しない
徳川家康の命令でわざと豊臣秀吉に着いたという説があります。
しかし、急に寝返った石川数正は豊臣家では中枢にはもちろん入れていません。
スパイとして送り込むには豊臣家はでかくなりすぎて手遅れです。
スパイ行為をするなら信長が生きている時から潜り込ませないと遅いです。
徳川家にとっては石川数正は重要人材なので損が大きい
石川数正は徳川の軍事機密を多数知っており寝返りにより軍制変更が必要になってます。
そもそも武断派が多く外交交渉できる人材が少ない徳川家にとっては大変貴重な存在でしょう。
優秀な外交官である石川数正を手放す理由が見つかりません。
もし、本当に家康の命令だったら流石に関ヶ原後に子孫が加増されるのではないでしょうか。
異説2 秀吉側が和睦の条件に石川数正の寝返りを出した
秀吉側が和睦の条件に石川数正の移籍を出したという説もあります。
しかし、徳川に属した状態で新豊臣武将という立場の方が秀吉からすると利用価値が高いです。
そもそも豊臣の中に入ってしまうと石川数正は序列からいって外交官としての役割を与える事はできません。
前述したように外交は大名の代理となって行う必要があります。
相手の大名が主君にほど近い代理に相応しいと認めるような人物でないと務まらないからです。
まとめ
以上、想定する裏切り理由を改めてまとめました。
- 江戸時代を知っている現代人からするとおかしく感じますが徳川家康より豊臣秀吉の時代が来たと石川数正は判断した。
- 石川和正は嫡男信康の後見人だったが信康切腹に不満をもっており、浜松衆や家康付との関係が悪化した。
- 当時の家康はまだ天下人の器になる前だったため、外交の重要性を理解している秀吉に強く惹かれた。
乱世の戦国時代を生き残るには裏切っても忠義を尽くしても成功する確率は極めて低いので大変ですね。
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